珈琲中毒
Rver.
曰く、人の幸不幸は帳尻が付くように出来ている……らしい。
天頂に指針を取りながら燦々と降り落ちる陽の光をうんざりと全身に浴びつつ、ロイ・マスタング大佐は舗道を歩いていた。徹夜明けの体にでは無くむしろ精神的な方面において刺し抜くような日射しは、歩む速度を鈍らせないまでも、じわじわと灰と化していきそうな心地させる事には変わりない。
さりとて、その闇の怪物めいた心境が今日に限っては若干程度が軽いのもまた事実だった。夜勤に当たっていたとはいえ、大概の場合そのまま暗黙の了解の如く連続して日中の勤務に突入するのだが、今朝は一日休みを与えられた。優秀な副官にだ。部下から与えられる、というのも妙な話ではあるが、実際その表現はとても正しいのだから詞遣いに誤りは無いだろう。――ともかく何をどう気遣われたのかは判らないが、日勤に入ろうとした男は自身の副官から夜勤で上がって構わない旨を伝えられ、ならばと日の照る中に司令部を後にしたのだった。ざっと脳裡で算段したところ不在によって特に問題が生じそうな案件も思い当たらなかったし、くれる休暇を要らぬと突っぱねる道理も無い。
だが有難く一日の休日を頂戴したものの降って湧いた幸運に、錬金術師の性かはてまた身に染みついた貧乏性の性か、その幸運以上の対価を何某かの形で要求される事になるのではないか…とこっそり心配になるのも仕方の無い話である。
そういう訳で、爽やかな光と空気、手に入れた一時の自由という事実とは裏腹に、やや気怠げな雰囲気を醸し出して軍装束の男は往来を渡っていたのだった。
取り敢えず家に戻ってシャワーと着替えを、と思案していた矢先――。
ふと、通りがかったカフェテラスの向こうに横目で視線をやる。何か目に入った、という訳ではなく直感の類だ。虫の知らせとでも言うべきか。
しかし一度、さり気なく瞬きを挟んでしまえば直感も確信に変貌する。踵の弾く音律を乱さないまま、ロイは素知らぬ顔をしてカフェの扉口をくぐった。
昼にはまだ早い時刻の店内は、それでもブランチや朝の一休憩を決め込む者がいるのだろう、そこそこの人の入りが見られていた。疏らにしか空いていない席の様子を窺い、そのさざめくような喧噪に内心で気を良くする。これでは多少の事があっても周りの注意を引くまい。別段見られて困るような事がある訳ではないが、目立たないならそれに越した事は無い。……良くも悪くも人目を捉えてしまうのがあの兄弟だから。
カウンター越しに店員と相向かう。
「サーモンとクリームチーズのオープンサンドとブレンドを一つずつ。
あと、これもそれぞれ一つずつで――フレンチクルーラー、エンゼルショコラ、ダタークランチにココナッツチョコレート、ハニーオールドファッション、ストロベリーリング、シュガーレイズド、…ああ、マフィンも要るな…、ついでにパイも付けてくれ。ハムチーズとアップルと海老グラタンだ」
此処で戴くよと口の端をつり上げ、これで相手が女性だったら笑顔も五割増しなんだがなあと己のささやかな不運に肩を落としつつ、だが文句は言うまいと男は気を取り直した。幸運というならこの店に入った時点で充分にお釣りが来る。その分、ますますのしっぺ返しが来そうな予感が拭えないのも致し方ない、が。
先に席を陣取る程の待ち時間も無かった。手慣れた仕草で作り置きの商品を皿に並べ、珈琲をカップに注いだ店員は、会計を済ませて手帳を眺めていた男に素早くトレーを差し出したのだった。
短い謝辞を述べて席へと足取りを取れば、目的の場所へ居座る先客は何やら身を屈めて御相談中のようだ。ちらともこちらを振り返ろうとしない。
先刻までは痛いくらいの視線を注いでいた癖に、と苦笑を禁じ得ない思いで、ロイはなるべく音を立てないよう留意して席へと近づいた。
「…………、今日も夜勤なのかな?」
「どうだろうな」
「残念だったね、兄さん」
「…なにがだ」
金の頂に陰を翳す。
己の差し入れた呟きに、きょとん、と少年達は互いの顔を見合わせると、弾かれたような反射速度で頭上を振り仰いだ。
零れ落ちそうな黄金に己の顔が映っているのを視認して、男は表情を緩める。
「なにをこそこそしているのかね」
「よ、よお、大佐」
「こんにちは、マスタング大佐」
露骨に焦ったような返事が笑いを誘う。
「司令部に顔も出さずに優雅な珈琲タイムかね」
東方入りする事すら知らされていなかった身としては、これくらいの嫌味は許されるだろうと笑みを貼り付けながらトレーをテーブルに降ろす。そのまま応えを待たずに金髪の少年の隣を陣取ると、当の少年は、決まり悪そうだった風から瞬く間に嫌そうな面持ちを誂えた。全く、復活の早い事で何よりだ。
「そういうアンタは、またサボりですか?」
可愛らしい事この上ない口も健在のようで涙が出る。
黒髪はトレーに手を伸ばしながら切り返した。
「残念ながら、仕事は滞りなく終わったよ。今朝の10時にね」
「え? 徹夜ってことですか?」
鎧の少年の驚いた声に、手に掴んだオープンサンドに歯を立てながら軽く頷いてやる。
軍務に限らず、職に就けば夜通し仕事をするなどそう珍しい話でもないが、年若い彼等にしてみればそういった事は『大変』な部類に属するのだろう。弟の驚きの裏には子供らしい労りが含まれていたが、どうやら兄の方は違うようだった。
「あー、それはそれはお疲れでしょう。邪魔するのも悪いし、オレたちはそろそろ…」
「え? 兄さん、待ってよ」
視線を明後日の方向へ流したエドワードがカップを携えたまま、立ち上がろうと腰を上げる。
そこへ咄嗟にアルフォンスが手を出し――出した場所がまずかった――不意を突かれてバランスを失った少年の腕は、うっかりその手許を傾けてしまった。
あ、と思う間もなく、群青に包まれた右の脚に珈琲の飛沫が散る。
「…君たちは、私になにか恨みでもあったかね?」
恨み節に慌てて手許を修正したエドワードだったが、時は遅かった。
重力に任せて流れ落ちた液体は、既に飛沫が散るというレベルの話では無く、群青を大きく侵蝕していた。張力で踏み留まっているかに見えたのもほんの僅かの間で、直ぐさまそれは布地に浸透し、男の膚へ温く湿った感触をもたらしていく。
淹れ立てで無かった事が唯一の救いだった。
「一応、軽い防水なんだな…」
「言いたいことはそれだけか」
「ごめんなさい! 大佐! 大丈夫ですか!?」
呆然とする金髪、少しばかり青筋の浮いた大人、慌てふためく鎧の少年と、三者三様の反応を示しつつもまずは事後処理を優先させる事で一致する。男は懐からハンカチを取り出すと珈琲で染まった下衣を拭い始め、鎧の少年は店員の方へ足早に駆けると台拭きを借り受けてきた。台拭きで己の下肢を拭おうとしたアルフォンスを大丈夫だと言って押し止め、その代わりに少量伝い零れてしまった椅子の部分や、弾き飛んだテーブルの上を拭いてもらう。服の方はもうクリーニングに出さない事にはどうしようもなかろう。ハンカチを取り出して見せたのも、実のところポーズの意味合いが強い。
ちら、と物言いたげな含みを乗せて男は金色の少年を見る。
それにつられたように、彼の弟も床から兄を見上げた。
「あー…、悪かったよ」
二人分の視線に居たたまれなくなったのか、とうとうエドワードの口から素直な謝罪の言葉が零れる。
望む科白を引き出し、思わず綻びそうになる自身の口許を抑えつつ。
男は取り澄ました顔で告げた。
「悪いと思うなら、私の朝食に付き合いたまえ」
一人で食べるのも味気ない、と駄目押しで添え、男はアルフォンスから台拭きを受け取るとテーブルの端に置いて、代わりに自分の珈琲を手に取る。啜った黒い液体はもう随分と温くなっていた。
自宅に戻れば好みの豆が揃えられている。珈琲については帰ったあかつきに仕切り直すかと茫洋と思考を飛ばしていた先に。
がたん、と隣で椅子の擦れる音がした。
意識を引き戻され何事かと傍らを見遣れば、そこにはトランクを持った鎧の少年が佇んでいる。
――しかも、いやに、近い。
大佐、と小さな小さな声で囁かれ、意図を察して男は顔を甲冑の頭の方へと傾けた。
恨めしげに此方を眺めている金髪には届かないような声量で耳許に流し込まれた内容は、まさに半分程は自身と意を同じくするもので。その奇遇さに、いやこの兄が相手なら至極当然かと浮かべつつも、思わず口の端が緩んだ。
「ということで、後はお願いしますね、大佐」
「ああ、了解した」
「あ? なんだ、なんだ!?」
勝手に二人で話を決めるなと喚く金の仔猿をさらりと蚊帳の外に追いやり、手を振って店の出口へと消えゆく弟に男も笑顔で手を振り返した。甲冑の背に黒眸を止めながらも側方に注意は怠らない。立ち上がり、倣って身を翻しかけたその黒服の腕を一手速く捕獲する。
行動を阻まれた少年はぎ、ときつい眼差しを黒髪へ落とした。
「なんだよ」
「君は私の朝食に付き合う約束だ」
――無論どれ程凶暴とは言え、仔猿ごときの威嚇に怯むようでは軍人なぞやっていられない訳で。平生と変わらぬ居ずまいでその視を受け流すと、反応の無さに少年も諦めたのか、軽く舌打ちつつも再び大人しく席へと着いた。いつもなら此処でもう暫く根比べが続くところなのだが今日は随分と従順だ。そんな些細な事にまた、内心ほんの少し気を良くしつつ、さり気なく手許で割り砕いた欠片を不機嫌な口唇に押し付けた。
「ん、」
途端、条件反射の如く口が開く。何も考えずに与えられる餌を内に招き入れる、その愚鈍な信頼が酷く愛おしい。
銜える。
蜜色の双眸が、零れんばかりに見開かれる。
指先から勢いよく奪われた欠片は一口分だけ紅唇の中へと失せ、咀嚼される間も無くエドワードの左手に携えられた珈琲によって咽喉奥へと流しやられた。
なんだこりゃあ!と一昔前のドラマのような台詞で吼える少年を尻目に、男の手がパイへと伸びる。どうやらシュガーレイズド(基本)はお気に召さなかったらしい。次はハムチーズをちぎって放り込んでやる。
これは当たりだったようで、今度は卓上にカップは置かれたままだった。そうして漸く少年の視線が自身の手許に落ちる。実に呑気なものだ。
「…アンタ、ドーナツなんて食うんだ」
しげしげと甘い菓子の欠片を見つめ、さも意外だとばかりの声調で呟きが漏れる。
何と答えようか一瞬迷い、結局、微かな苦笑と共に当たり障りの無い理由を選んだ。
「…疲れててね。たまには私だって甘いものが欲しくなるときもある。夜勤明けには特にね」
「じゃあ、オレなんかに食わせてないでアンタが食えってんだ」
口唇の周囲の粉砂糖を指で拭いつつ、エドワードは鼻息を吹かす。それから僅か思わしげに眼差しを揺らし、そうかと思えば唐突にドーナツの残りを男の口許へと運んだのだった。
にんまりと貼り付く笑みが気色悪い。
「はい、あーん」
「…なんの嫌がらせかね」
迫り来る砂糖菓子に黒眉を顰める。甘い物は苦手ではないが、かといって好きという訳では決してない。出来る事なら徹夜明けの胃に甘ったるいボディブローは遠慮したいところだった。
「いやいや。オレなりの疲れた大佐へのサービス」
そんな男の思惑は余所に、当の少年は煌々しい笑顔を湛えたまま手を緩めない。意を知っての事か、はてまた照れが故の眉間の皺だと思っているのか、ともかくこの状況から逃がすつもりは無いらしい。
観念して一つ溜め息を吐くと、差し出す少年の掌を捉える。抓まれた欠片に口唇を寄せ。
「甘いな」
「だろ」
してやったりとした黄金の笑みが深まる。舌先をじわりと侵蝕する甘ったるさに、まだクリーム入りで無かったのがせめてもの慰めだと思った。
砂糖の細かに散った口許を指腹でなぞり、しかし、と黒髪はおもむろに口火を切る。
「砂糖には疲れた脳を活性化させるとともに、珈琲のカフェインも打ち消す効果がある。珈琲に溶かさないで取った場合にも効果があるかは微妙だが」
知ってたかと問えば、心なしか弱々しい肯定が返った。少年にも思うところがあったのだろう。
そこにつけ込むように本題を畳み掛ける。
「――最近珈琲ばかりを飲んでいると、アルフォンスが心配していたぞ」
弟の名を口にし反応を窺う。
刹那、金眸が決まり悪そうに天井を仰いだ。
「そんな心配されるほど飲んでねえよ」
嘘だな、と音にはせずに心中で即答する。これではその指摘の正しさを自分で認めたようなものだ。実際相当に飲んでいると見える。
男の口唇から自然、吐息が零れた。
珈琲を多少過剰に取る事自体はまだ良い。
――問題なのは、食事をまともに摂っていないような状態で流し込む事だった。空腹の状態でカフェインを摂り過ぎれば胃腸を傷めるのは明らかであるし、少年が食を疎かにするのは単に不精しているのだという事は解ってはいるが、胃腸の調子が悪ければ食欲の方にも影響を及ぼすかもしれない。加えて、摂取状況により眠りを払う作用が効き過ぎれば、少年のただでさえ充分とは言い難い睡眠を短く浅く妨げてしまっている事は想像に難くない。
一言、摂り過ぎるな、と断じるのは簡単だった。
けれどそれを口にする事を躊躇うのは――ひとえに、彼が何故珈琲を好むようになったのかが計り知れるからで。
少年に悟られないようもう一度だけ微かな息を漏らして、男の指が金髪の被る柔らかな頬に触れた。少年が拭い切れていなかった細かな糖を攫い、自身の舌先へと運ぶ。
に、と口の角を持ち上げた。
「まったく誰の影響だろうね。君の珈琲中毒は」
揶揄る口調で指摘してやれば、寸間口籠もった後天井を仰いだままの体勢で、誰のせいでしょおねえ、と苦々しい応えが響いた。流される横目がじっとりと黒眸を睨め付ける。自覚があるようで何よりだと微笑ましく思うが、極力態度には出さないようにする。誤魔化しがてらオープンサンドの最後の一切れを己の口に放り入れ、男にとっては可もなく不可もなしといったブレンドを悠然と啜った。
無論、本音を言えば、嬉しくない訳が無い。
好ましく思わない筈が無い。
幼い恋人が一つ一つ変わっていく様が自分の影響を受けての事であれば尚更、それを目の当たりにするのは格別の楽しみであり、いっそ望ましいとすら感じてしまう。
――だがしかしそれはそれ、これはこれだ。
大切なのは些細な喜びに溺れてしまわない事。
大人としての主導権を、見失ってしまわない事。
黒髪の大人はふわりと笑むと、頬杖を突いた少年に向かって軽やかな誘いを投げ。
「さて、デートもいいが、私は着替えたいのだがね。君も来るかい?」
先程珈琲を零されて染みついてしまった部分が良く見えるよう、わざとらしい仕草で軍服の裾をたくし上げる。
半眼になった黄金は、やがて重苦しげな吐息を吐き切り、一気に杯を空にして返事を告げた。
「美味い珈琲出してくれるならな」
決断即実行の精神はこんな時であっても揺るがないらしい。応じるや否や立ち上がって背を向けかけた少年の居ずまいに、思わず大人はくつくつと笑み声を震わせる。
「なるほど。これは立派に中毒だ」
付き従うようにトレイを持って席を立った男を、金眸が鋭く突き刺した。
自宅に着いたら、ありったけの砂糖菓子を恋人の口唇に詰め込みながら、丹精込めて直々に己が淹れた珈琲を含ませてやろうと胸裡に抱く。
一度口にしたら他の何処の珈琲であろうと摂れなくなってしまうような、そんな極上の香ばしい琥珀を。
――だから美味しい珈琲が飲みたくなった時は、此処へ帰ってきなさい、と。
「残留熱保管庫」様の企画に参加させていただきました、ロイバージョンでございます!
千剣様の書かれた素敵なロイさんです! 私じゃ到底書けません。
ということで、素敵な千剣様の作品がたくさん読めるサイトは
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